第五章:記憶の涙2

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細い路地を暫く歩いたところで古びた長屋のような住宅がいくつも続く場所へ出た。

家の作りは玄関のドアがなく家の中は丸見えで、
椅子に座ってこちらの様子を伺っている老人や、赤ん坊を抱っこしている小学生くらいの女の子、
言い合いをしている夫婦などが見えた。

「ここだよ」
長屋の一番奥にある家の玄関前までくるとメグサは足を止めた。

玄関の奥から幼稚園児くらいの小さな男の子が顔を出した。
煤かなにかで顔が真っ黒に汚れている。
「ホクシア、母さんは?」
メグサは男の子に問う。

ホクシアと呼ばれた男の子は僕を見て一瞬驚いたように目を見開いたがすぐさま表情を戻し
メグサの質問に小さなあどけない声で答えた。
「上だよ」
その言葉に納得したようにメグサはこっちだよ、といいながら僕を家の中に迎え入れた。

石造りの暗い部屋だった。
玄関の入り口をくぐると、遠慮深げにお邪魔しますと言いながら
室内をぐるりと見渡した。
ランプの光がなければ何がどこにあるかわからないような状態だったが
オレンジ色の光に照らし出された室内は荒れ放題に散らかっていた。
誰も掃除をしようとしないのだろうか?

やがて室内の狭い廊下をぬけると奥に急な傾斜の狭い階段が現われた。
メグサは一度立ち止まり、振り返って僕の顔をみた。
そして小声で言う。

「あなたに治してもらいたい人がこの上にいます。
私の母です。
私の母もカンナと同じ病気です。それもカンナより重症で今は寝たきりです。」

そこまで言うとメグサは顔だけでなく体もこちらへ向きを変えた。
そしてさらに沈んだ声で言う。
「父を…父をケンタウロスに殺されました。母もそのとき重症を追ったのですが
今は体のほうは完治しています。
ですが…心が戻りません。
どうかあなた様に治していただきたいのです」
様付けで僕を指すと真っ直ぐな鋭い瞳で僕を射る様に強く見据えた。
そこには強い願いと淡い希望がこめられているようにも見えたのだが…しかし…
僕は思い切って決心したように一度軽く息を飲んで答えた。

「もし僕に治せなかったら?」
すると突然メグサは鋭い笑みを浮かべて見せた。

「もちろん、あなたを殺します。」

何故だろう。
何故そんなに嬉しそうな顔をするのだろう。
僕はぞっとせずにはいられなかった。
背筋に悪寒が走る。

「なんで殺されなくちゃいけないんですか?」
と、次の瞬間銀色の光が現われたかと思うと首につめたい感触を受けた。

先ほど腰に挿していたナイフの刃だ。
恐ろしいほど冷たく低い声でメグサは答える。
「カンナを治せたんだ。つべこべ言わずに俺の母親も治せ」

鋭く冷たい瞳になぜかしらの笑みが浮かんでいた。
何故こんなときに笑えるのだろうか。
と、突然僕の左手首をつかんで持ち上げた。

「この指輪をして白を切るのはやめてくださいよ、先生」

先生?

「これは神宮の指輪でしょ。あんたを殺さなきゃ俺ら全員が皆殺しだ。
だから殺すって言ってるんですよ。わかりましたか?」
もはや興奮して乱暴な言葉と敬語が入り混じっている。

指輪がどうだのと言われても正直こまる。
いつの間にか付いていた、と言っても今の彼には通じないだろう。

正直わけがわからない。
そもそも何で自分がこんなところにいるのかさえ解らないのだ。

ここが映画のセットでない事はわかった。
だがしかし…どうすればいいのかは依然として解らないままだ。
ガラスのような羽の蝶、半馬人、不思議な瞳の色をした民族衣装の町民たち…
針のない時計、小指の指輪……
何かファンタジーの世界にでも紛れ込んでしまったのだろうか…。

どうする?!

従うしかないのか…。

数秒間の中、僕の頭はフル回転していた。

このままではメグサに確実に殺される。
それともこの世界で殺されることによってもとの世界に戻れるのか?
いやしかし、もし、そうでないとすると…。

………。

さぁどうする?どうすればいい?
何が一番正しい?

何が一番正しいんだ?!

「わかりました」
僕は静かに答えた。

「薬湯はもうありませんがこの音色で救えるか試してみます。
これは神より授かった楽器です。
この音色を聞けば誰でも多かれ少なかれ心に癒しを得ることができます。
ただ…」
そこで言葉を切る。
「ただ?」
メグサがイラついたように言葉の先を求める。
「この音色で効果がなかった場合、神の意思に従えという意味になります。」
「どういうことだ」
「僕は神様じゃないから人の運命は決められません。審判を仰ぐ事が出来るというだけです。」
すると突然メグサは床にひざを付いて倒れこんだ。
「なんだって…。
神の審判だって?ケイローン様は母を救ってはくれないというのか?!」
メグサの声はかすかに震えていた。

予想以上だ。

当然これは僕の適当な作り話だったのだが
メグサは真剣に悩みこんでしまっている。
申し訳ない気持もいっぱいだがこちらも命が掛かっている。
指輪の話をしたときメグサは“神宮”という言葉をつかった。
半馬人が存在する世界だ。神さまがいたってなんらおかしくない。
だったら自分が神様の使いという事にすればメグサをうまく言いくるめると思ったのだが
作戦は功を奏したようだった。

「じゃあ行きましょうか」
今度は僕が階上を目で仰ぎメグサを促した。


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