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細い石造りの階段を上りきるとさらに細い廊下が建物の終わりまで続いていた。
両端には扉のない部屋の入り口がいくつもある。
メグサに続いて僕、ジニア、アリノミ、そして玄関にいたホクシアが続いてやってきた。
やがて一番奥の左手の部屋の前まで来てメグサは足を止めた。
「母さん、起きてる?お医者様を連れてきたよ。」
今まで聴いたことのない明るい声を出すとメグサは僕の手を引っ張り
部屋の中へと案内した。
部屋は思った以上に広かった。
石で出来た薄暗く四角い部屋。10畳くらいはあるんじゃないだろうか。
入り口から真っ直ぐ奥に行ったところに小さな窓とベッドがあった。
窓には小汚いカーテンが乱暴に掛けられていて、
ベッド脇には箱のようなものが置いてありハンドタオルのようなものが山のように
積んであった。
他に家具らしきものは見当たらない。
「母さん、起きてる?」
メグサは僕の手を引きながらゆっくとベッドへ近づきもう一度問う。
ベッドには女性が横たわっていた。
布団は掛かっていない。
灰色のワンピースのようなものをまとい、
天井の一点を真っ直ぐに見開いた瞳で見つめていた。
頭の両端にはハンドタオルが添えてある。
彼女の様子を見て思った。
本当に重症なようだ。
誰が見てもわかる。
恐ろしいほどに真っ黒な瞳はもはや何も見えてないのではないか?
しかし、先にも言ったとおり僕は神様じゃないし医者でもない。
到底彼女の病気を治すなんて無理に決まっている。
メグサはいとおしそうに目を細めベットに横たわる母親を見つめた。
しかしそれに対して返ってくる反応は何もなかった。
少しの間メグサは母親をじっと見つめていた。
その冷たい光景が
僕の胸を締め付けていた。
「じゃあ、初めてください。」
メグサは優しい言葉を僕に掛けたが目つきは相変わらず鋭かった。
「ちょっと失礼。風通しを良くしないと。」
そういいながらカーテンに手を掛け布をめくった。
窓の向こう側は真っ暗だった。
すると…水の流れるような音が聞こえた。
もしや!
「この下は川なんですよ」
メグサが言う。
よっしゃー!!
思わず心の中でガッツポーズをする。
当然病気を治せないのは自分が一番わかっている。
このままでは確実に殺される。
演奏している間に隙をついて逃げるつもりなのだ。
だとしたらこの窓から川に飛び込めばいい。
音からして流れが少し急なような気がしたが
むしろその方が都合が良いのかもしれない。
「じゃあ、演奏の準備をするので少し離れてください。弓が当たると危ないから」
そういいながらメグサを入り口で立っていたジニアたちの方に行くように促した。
一瞬メグサが僕を睨んだが言われるままに入り口のほうへと戻っていく。
よしよし…。
今だろうか?!
今抜け出せば!!
ふとベッドの女性の顔に目が行く。
見開いた真っ黒な瞳から何かが零れ落ちるのが見えた。
「え?」
「心の記憶がこぼれているんです」
「心の記憶?」
「笑顔でいたときの記憶が涙になって零れ落ちて行ってるんです。」
何故だろ、悲しげなメグサの表情を見て胸が苦しくなる。
よく見ると彼女の枕元においてある両脇のタオルがぐっしょりと濡れているではないか…。
これは全部笑顔でいたときの記憶とやらがこぼれた跡なのだろうか…。
ベッド脇の箱にはぐっしょりとぬれたタオルが山積になっている。
そうか…。
これはお母さんの笑顔の記憶がこぼれたものだったんだ。
胸が痛い。
本当にこのまま逃げていいのだろうか。
心拍数が上がる。
心が動揺している。
自分が激しく動揺している事に気がつき息を飲んだ。
逆の立場になって考えてみたら
とてもじゃないけれど心が押しつぶされそうになるだろう。
もし自分の母親がこんな状態になってしまったら?
違う。
これは僕の母親じゃない。
違う。
違う…。
けれど…
けれど……。
胸が痛く息が苦しい。
何が一番正しいんだ?
もう一度自分に問いかける。
何が一番、
自分が後悔しないでいられる道なんだ?
バイオリンケースのベルトをぎゅっと握り締めた。
このバイオリンは何を望んでいる?
何を?
僕は、そっとしゃがみこむとバイオリンケースを床に置き
演奏の準備に取り掛かった。
正直これで治せるなんて思わないけれど
カンナの笑顔を思い出す。
僕が演奏中すごくはしゃいでいて、
最後には笑顔を見せてくれた。
音楽には人の心を癒す力がある…よく母が言っていた言葉だ。
現にそれで心癒され救われた人を僕は知っている。
バイオリンを構えた。
僕は医者じゃないし神様でもない。
けれど、
だから、僕に出来る事なんて限られている。
僕が今できる事は、こんな事くらいしか…。
弓を弦に引っ掛け、演奏を始めた。
マスネ作曲「タイスの瞑想曲」
ゆっくりした穏やかなテンポの曲だ。
昔これを病院に慰問した時弾いた事があった。
ちょうどメグサと同じような頃合の女性がいて
大変心が癒されたと喜んでくれていたのを思い出し
この曲を選曲した。
これが少しでもメグサの母親の耳に、そして心に
ほんの少しでいい、
少しだけでもいいから響いてくれたのなら…
そして、少しでもこの涙を止めることができたのなら…。
気がつくと僕は演奏しながら涙を流していた。
何故だろう。
悲しくも、メグサの母親に対する気持ちが溢れてとまらない。
少しでも、
ほんの少しでもいい、
ほんの少しでもいいから!!
旋律に僕の想いが重なり織り込まれてゆく。
もし本当に僕が医者だったら、
神様だったら
間違いなく適切に彼女の症状や苦しみを和らげてあげられるのに、
それが僕にはできない。
ただ、こうやって
想いをのせてバイオリンを弾くことしか。
それだけしか、
でも、
それだけでも
それだけでもいい。
それだけでもいいから…!
最後の高音の一音をビブラートさせながらできるだけ長く、
長く引き伸ばして演奏を終えた。
構えたバイオリンをゆっくりと肩からはずし
息を飲んだ。
母親は依然、天井の一点を見つめたままだった。
やはり僕に出来る事なんて
何もなかった?
これで僕の命も終わりなんだろうか。
だが、
最後に人として、僕が出来るせめてもの事をしたのだから
最大の後悔はしなくて済んだかもしれない。
もし、演奏しないで窓から逃げていたら
命は助かったかもしれない。
けれど一生後悔をしていたに違いない。
そう確信したから僕は逃げずバイオリンを弾いたんだ。
もう後悔なんてない。
そっと俯くと
メグサがこちらに駆け寄ってくる音がした。
ああ…
これで終わりか、と思うと次の瞬間にメグサが叫んだ
「母さん!!」
思わず僕は閉じた目を開く。
メグサが母親の枕元に立ちじっと表情を見張っている。
そしてもう一度母さん!と叫んだ。
するとジニアとアリノミもホクシアもメグサとはベットの反対側の枕元に駆け寄り
母親の様子を必死で見守っている。
次の瞬間、かすかに聞き覚えのないか細い声が震えるように聞こえてきたのだ。
え?
思わず僕もメグサの横に立つ。
今までずっと天井の一点を見つめていた母親の視線が
メグサのいるほうへ移動しているのだ。
まさか?!
「お母さん!わかりますか?!」
僕は思わずメグサの母親の顔を覗き込んだ。
するとなんと細く、静かに
微笑んだではないか。
人形のように凍てついていた表情が水に溶けた氷のように
僕に微笑み返したのだ。
「母さん!!」
子供たちは表情を取り戻した母親に抱きついて声を上げて泣きだした。
にこりと微笑んだ母親の瞳は次の瞬間
朝日が光を差したように紫色の宝石のように輝きだしたのだ。
奇跡だ!!
僕も思わずつられて泣き出す。
たった今会ったばかりの人の表情が戻っただけなのに
なんでこんなに嬉しいんだろう。
うん、嬉しい。
嬉しいことじゃないか。
嬉しすぎる!!
四人の子供たちとそれに混じって泣く僕を母親は嬉しそうに
上半身を起こすとその両手で子供たちの肩を抱いた。
母親は静かに言った。
「ありがとう。もう、大丈夫よ」
メグサが泣きじゃくりながら母親を強く抱きしめていった
「母さん!!母さん!!」
僕は少しほっとして
彼らから一歩離れたところに立った。
何が効いたのかはわからない。
本当にバイオリンの音色が効いたのだろうか?
音楽療法?
こんな簡単に?
とにかく彼らのお母さんが無事健康を取り戻したんだ。
良かったじゃないか。
正直自分の命が助かったことよりも断然嬉しかった。
涙を袖でぬぐいメグサがこちらを振り返った
「本当に有難うございました!!」
腰を45度曲げてお辞儀をしてみせた。
他の子供たちも口々に泣きながら礼を言う。
僕は嬉しくて彼らににこりと微笑んで見せた。
と、突然外が騒がしくなったことに気がつく。
次の瞬間、乱暴に複数の人間が階段を上がってくる音が聞こえた。
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