第九章:消え行くもの
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思わず泣きそうになるのをぐっとこらえる。
かわいい弟が今にも死にそうな顔をして
こんなたくさんの管につながれ痛々しい姿でベッドに横になっていたら
誰だって!!
気がつくと僕は弟の名前を静かに呼びながらその顔に手をそっと添えていた。
肩をぽんと叩かれる。
「竹人、少し落ち着いて」
そう言いながら僕の腕を軽く引っ張ってベッドから少し離す。
『いいんだよ…君の弟さんと僕が瓜二つだから驚いているんだよね?』
キク=カが微かに微笑んだがそれがあまりにも痛々しすぎて
もう僕には止める事が出来なかった。
涙が溢れる。
次々と頬を伝いしずくがぽたぽたと零れてゆく…。
「前もって話すべきだったかな?」
イネ=ノも少し困惑した顔をする。
「イネ=ノは知ってたの?
や…ホントごめん…でも…これ洒落になってないから…」
思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
長いため息が漏れた。
持っていたバイオリンケースが一緒に倒れる。
体に力が入らない。
体が軽く震えているのが分かった。
喉の奥が詰まるような感覚がして上手く呼吸ができない。
息が苦しくてめまいがしてくるほどだ。
でも、今は…。
なんで…、
なんで僕は泣いてるんだ…
今はやめてくれ!
頼む!!
涙、止まってくれ!!
そう祈りながらも涙は次から次へと零れ落ちてゆく。
顔を両手で覆う。
暫く沈黙が続いた。
誰も口を開かない。
ただ遠くで微かに水の流れる音がしていた。
少しずつ呼吸が整っていく。
気がつくと涙も止まっていた。
一度、深く息をはいた。
やがてやっとのことで僕は顔を上げ、そっと立ち上がる。
「すみませんでした。弟と重なって見えてしまったもので…」
だが声はまだ涙声だ。
「いいんだよ。こちらこそちゃんと話すべきだった。」
イネ=ノが僕の背中を優しくさすってくれた。
『竹人…こちらへ…。もう一度顔を見せて』
キク=カの、か細くも弱弱しい声が聞こえる。
なるべく二人に気づかれないようにゆっくりと深呼吸すると
再びベッドの脇に立った。
やはり明人だ…。
髪の色も瞳の色も違うけれど、だけど
この顔は…。
『君もイネ=ノとそっくりだ。』
「え?」
思わず両手で自分の頬を触ると、触り慣れた感触を受けた。
「部屋に入ったとき術は解いたから」
イネ=ノがそういいながら椅子を持ってくると僕に座るように促した。
ありがとうと礼を述べて僕はそこにそっと腰を下ろす。
『早速だけど本題に入ろう。
あまり時間が無いんだ…。』
時間が…ない?
思わず息を飲む。
『君の帰る方法なんだがそれは
次元のひずみの隙間、そこから帰れる。
ただ、いつでもその隙間はあるわけじゃない。
次に現われるのは偶然にも明後日だ。
ただ、これを逃すとあと10年、
君の世界で言うと30年は帰れなくなる。
だから一度きりのチャンスだと思ってほしい。』
運よく明後日その扉が開く。
だが逃すと先が長いということか…。
『場所はイネ=ノが知っているよ。』
イネ=ノがこくりと頷いてみせる。
『予言してあげる。君は、』
そこでキク=カは一度言葉を切り
僕の瞳を真っ直ぐに見つめて見せた。
そして再び口を開く。
『君は幸せになるべきだ』
「え?」
『今のは予言だけではなく僕の望みも入っているんだよ』
にこりと無邪気な笑顔を作って見せたが
あまりにも明人と重なってしまいまた泣きそうになるのをぐっと堪える。
「そうだ、竹人。バイオリンを聞かせてあげてはどうかい」
イネ=ノが提案する。
「あ、そうだ…」
立てかけられたバイオリンケースを見た。
そこでふと疑問がわく。
キク=カは何の病気なのだろうか?
見たところかなり重病のように思える。
この部屋自体がまるで集中治療室だ。
だが…今は聞かないほうが良いのかもしれない。
ケースからバイオリンを取り出して構えて見せる。
イネ=ノと同じくタイスの瞑想曲を弾こうかと一瞬思ったが、
なぜか弓を持つ手が止まって動かない。
だめだ…。
のどが詰まるようなそんな感覚があってまた呼吸が浅くなる。
「何を弾いてくれるんだい?」
イネ=ノが促した。
「あ…じゃあ…イネ=ノも知らない曲を」
そういって一度深く深呼吸すると
演奏を始めた。
透明な水彩画のように澄んだメロディ。
風をあおぐ小さな花のように、
ゆったりと穏やかにながれてゆく雲のように、
小鳥のさえずり、
きらきらと輝く光の水面、
ざわめく木々の影に映し出された、少年。
真っ直ぐに見つめるその視線の先には何がある?
蝶だ…
蝶がひらひらと踊っている。
空をダンスしてる。
旋律に流れるように描き出されるその光景。
そう、
この曲は…
明人が作曲したものだ。
同じフレーズが繰り返されたかと思うとやがて解けて形を変える波のような、
そんなメロディ。
それに僕が少しアレンジを加えたものだった。
曲名は「水彩画の蝶々」。
いつかこの曲を二人で合奏しよう。
そういいながら喜んでいた明人だったがその夢はまだ叶ってはいなかった。
そう、
まだ夢は叶っていない。
気がつくと演奏はとっくに終わっていて
僕はバイオリンを下ろした格好で突っ立っていた。
イネ=ノに声をかけられるまで僕はずっとそのままの姿勢で止まっていたんだ。
『竹人、有難う。素敵な音色だったね。
こんな素敵な音色を聞いたのは久しぶりだよ』
明人、いやキク=カは優しく微笑む。
だめだ…
この世界に来てずっと張り詰めていたものが
キク=カと会った事によってプツンと音を立てて切れてしまったようだ。
「竹人、悪いけどそちらの椅子にかけていてくれるかい?診察をしたいのでね。」
そういいながら少し離れたところにある椅子に座るよう促される。
バイオリンをケースにしまうとイネ=ノにすすめられた椅子に腰を下ろした。
視界の先は涙でにじんでいる。
イネ=ノはキク=カの手を取り脈を測っているようだった。
こう見ているとイネ=ノが本物の医者のように見える。
少しの間瞳を閉じた。
ゆっくりと浅くなった呼吸を整えることに専念する。
これは、
…あの人は、
明人じゃない。
顔があまりに似すぎていて動揺しているんだ。
そう…
あの光景と重なってみる。
闇の中で連続的なコール音が鳴り響く。
医師や看護士が慌しく部屋の中に出たり入ったりしている。
廊下では
僕が一人その様子を見ながらどうすることも出来ずにただ
佇むばかりだった。
ドアが開いた隙間の一瞬を瞳が捉える。
たくさんの医療機器や配線、点滴チューブに囲まれて
呼吸器をつけた弟が横たわっている。
その傍で真っ青な顔をした母親が明人を慰めていた。
僕は…
どうしたらいい?
ああ…
明人が死んじゃうよ!!
僕には何が出来る?
僕に何が出来る?
ねぇ!
誰か答えて!!
誰か!!
ねぇってば!!
静寂とともに闇に包まれる。
医師も看護士も、母も姿を消し
闇の中に浮かぶベッドには明人が眠っている。
そっとその横に立つと
弟の顔を見た。
真っ青な顔をしている。
「…あき…と?」
そっと名前を呼んでみるが反応はない。
体が動かない。
ただただ、
瞳を閉じた弟の顔を静かに見つめることしか出来なかった。
僕には…何もできない。
このままじゃ…
明人は…!!
………と……
誰かが…
…た…と……
僕の名前を…
「竹人!」
名前を呼ばれはっと我に返る。
「竹人、大丈夫かい?」
僕の名前を呼んだのはイネ=ノだった。
気がつくと先ほどの椅子にもたれかかったまま僕は
眠ってしまったらしい。
体が汗ばんでいるのが分かった。
「大丈夫かい?顔色があまり良くないようだけれど…」
「え?」
転寝して悪夢をみていた?
…悪夢…
「もう終わったよ。帰ろう」
顔を上げるとキク=カは先ほどのベッドに横たわったまま
どうやら眠っているようだった。
寝顔まで弟そっくりだ。
ゆっくりと立ち上がるとバイオリンケースを肩に引っ掛けると
キク=カの宮殿を後にした。
帰り道、静かな星空が浮かぶ中、僕はぽつりぽつりと明人の話をはじめた。
「何度も生死の境をさまよっているところを目の当たりにして、
子供のころから弟の死を覚悟した瞬間が何度もある…。
無知だったからちょっとでも弟が発作を起こすとこれで死んでしまうのかも、と
大げさに思ってしまったところもあったけれど…。
最近になって少しだけ症状も落ち着いてきて安心していたんだけど
キク=カに会ったとき、思わず昔の事を思い出してつい動揺して…。」
イネ=ノは黙って話を聞いてくれていた。
「ただ、僕のあんな姿を見せてしまいキク=カには本当に申し訳なかったと思う…」
「それは心配しなくていいよ。キク=カのことだ。それぐらい分かっていたと思う。
だから大丈夫だよ」
歩く僕の肩に手を置いて見せた。
「あの…あそこでは聞けなかったんだけど…
キク=カは何の病気なの?」
肩に乗った手がするりと外される。
「神様でも病気になるんだね」
するとイネ=ノは突然歩を進める足を止めた。
「イネ=ノ?」
数秒黙り込んだ後
ゆっくりとイネ=ノは口を開いた。
「人を殺したんだ」
「え?」
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