第十一章:凍てついた寝室
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気がつくと夜が明けていた。
ベッドには柔らかく白い朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。
あれから暫く眠れなかった。
正直もう朝まで眠れないのかと思っていた。
だってあんな話を聞かされたら…。
正直キク=カの事はショックだった。
イネ=ノにも治せない病気に冒され意識が死んでも体は死ぬ事を許されず
ただただ永遠とその状態で苦しみ続けなければならない。
その理由は自分が犯した罪のため…。
恋敵を殺したというのもショッキングだったが
その前に父親を殺していたというのだ。
神になる、そのために。
それが代々続いているなんて…。
正直ぞっとする恐ろしい話だ。
昆虫か何かで幼虫が孵化したときに親の体を食べて大きくなるという話を
何かの辞典で読んだことがあったのを思い出す。
確かに自然界ではそういうのもありなのかもしれない。
ただ、それは生きるためだ。
それがキク=カたちにも適合するのか謎だ。
僕なんかがどうこう言ったところでどうにでもなる訳ではないが、
もしキク=カになんらかのかたちで跡継ぎが出来たとしてもそれは
喜ばしいことではない。その跡継ぎに殺されることが決まってしまっているのだから…。
もし、この世界にとどまることがあったとしたら
いずれにせよキク=カが苦しむ姿を、苦しむ様を知らされる羽目になるのだ。
おそらく元の世界に戻ったとしても心の中でずっとキク=カの存在が消える事はないだろう。
明人はどうしているだろうか。
ふと弟のことが気に掛かる。
僕がこの世界にいる間、向こうの世界ではどのように時が流れているのだろうか。
明日、元の世界に戻れることになっているが、来たときと同じ日時、場所に戻れるのだろうか。
それとも…浦島太郎のように何年も、何十年もワープしてしまうなんてこともありえるのだろうか。
こればかりはいくら考えたところで出てくる答えではないがやはり気になる。
もし、来たときから少しでも時間が掛かっていたら多かれ少なかれ誰かを心配させているに違いない。
明人も心配するだろう。
小学校高学年になってやっと体調が落ち着いてきたところで変な心配ごとをさせて
体に触ってしまったら…。
それだけが気がかりだ。
ゆっくり体を起こす。
カーディガンを羽織ると窓辺に立った。
窓の外は今日もよく晴れている。
そういえばここに来てから天気続きだ。
空気は少し乾燥していて風も冷たいがまぁまぁすごしやすい気候ではある。
こうやって静かで穏やかな朝を迎えていると
一瞬自分がどこからやって来て今どこにいるのかなんて
そんな事どうでもよくなってしまいそうになる。
けれど…。
ガラステーブルに置かれた制服や学生かばんに目をやる。
夢におぼれそうなりながらも心が叫ぶ。
やっぱり現実に、
元いた場所に戻りたい!と。
だがそれに気取れないように平静にすごしている自分がいる。
でないと歯車と歯車がかみ合わなくなり精神崩壊しそうになるからだ。
異世界に飛ばされるなんて普通ではありえない状況に置かれている、
ただそれだけでどうにかなりそうな自分が心の奥底に潜んでいる。
イネ=ノやアキレスたちの前では何事もないように笑顔を作ってみたりはするものの
やはりまったく不安がないといったら嘘になる。
正直、明日といわず今すぐにでも元いた世界に戻りたい。
戻りたい…。
大丈夫。
明日には戻れると言っているのだから
それを大いに信じたい。
信じさせてほしい。
信じなければ、
この先何を信じればいいのかわからなくなる。
「どうしました?顔色が優れませんが」
突然声をかけられ思わず飛び上がりそうになる。
その様子を察したのかすぐさまアキレスは謝って見せた。
「申し訳ありません。ノックはしたのですがお返事がなかったもので勝手に入らせていただきました」
トレーに朝食を乗せている。
イネ=ノはまた仕事だろうか?
「あ…ううん。起きてたよ。ちょっとぼーっとしてただけ。
おはよう。僕、少し寝坊しちゃったみたいだね。」
何事もなかったように笑顔を作って見せた。
「いえ…。お食事は召し上がれそうですか?」
「うん」
テーブルの上に朝食が並べられる。
温かいお茶がポットからティーカップに注がれるのをぼんやりと眺める。
お茶が太陽の光を反射しながら白くキラキラと輝いていて
思わず意識がそこに吸い込まれそうな感覚に陥る。
礼を述べると紅茶を一口すすった。
ほんのり甘い柑橘類の香りがする。
「今日はイネ=ノと出かけることになってるんだけど…」
「ええ、伺っております。
朝食が終わりましたらイネ=ノ様が向かえにいらっしゃいますので」
「解ったよ。」
今日は秋桜ちゃんに似た人に会いに行くことになっている。
昨夜、といってもつい数時間前のやり取りを思い出す。
「天秤座守護神アスティーヤ。それが彼女の名前だ。」
「アスティーヤ…」
口の中で小さくつぶやく。
「そのアスティーヤっていう人も…村であった人たちみたいな病気にかかっているの?」
「ああ…。それも少し重い。もうすでに失明している。
その病気のせいで別の精神症状がでてきていてね、
そこで君のバイオリンが役に立たないかと
思ったんだ。」
正直キク=カの事もそうだがアスティーヤのことも眠れなかった要因の一つだ。
ティーカップを持ったままその名前をつぶやいていた。
慌てて、何事もなかったように熱い紅茶を一口、わざとらしく啜る。
別人だとわかっていてもきっとキク=カと明人のように瓜二つなんだろう。
天妙寺秋桜とは正直ちゃんとした会話をした事はほとんどない。
挨拶程度だ。
家の廊下や玄関で会うたびに僕から挨拶をしていた。
すると蚊の鳴くような小さな声でうつむきながら彼女は挨拶に答えてくれる。
それ以上の会話をしたことがない。
ただ、それ以上に得るものは毎回あった。
そう、それ以上に僕が彼女に引かれているもの。
彼女のピアノの音色だ。
優しく今にも消えそうな淡い水彩色の音色をつむぎだす彼女に
僕は気がつくと心を奪われていた。
もっと知りたい。
彼女の事を、もっと知りたい。
あの音色を奏でる少女はどんな言葉をつむぎだすのだろうか?
でもきっかけがなかった。
個人レッスンだし僕も学校があったりで
時間を毎回彼女のレッスンに合わせられるわけではない。
だから昨年の冬に行われたピアノの発表会は正直チャンスだと思った。
横浜にあるホールでそれは行われ、
もちろん僕も行って彼女の演奏をしっかりと聞いてきた。
そこで一言、演奏素敵だったよ、
と言いたかったのだが…言えなかった。
タイミングがつかめなかったとしか言いようがない。
話そうとすると誰かが僕に話しかけてきたり、
逆に秋桜ちゃんに誰かが話しかけたり。
そうこうしているうちに気がつくと彼女を見失っていた。
結局年に一度のチャンスを僕は逃してしまったのだ。
せっかくゆっくり話が出来る絶好の機会だと思ったのに…。
ああ…今年こそは…。
気がつくとにやけている自分に気がついた。
まったく…何をやっているんだか…。
朝食後暫くしてイネ=ノが部屋に迎えに来た。
昨日と同じ紫色のロングコートのような服に白く大きな襟。
胸に大きな石のついたブローチをはめている。
「その服、似合うね」
思ったとおりの感想を述べた。
「ありがとう。これが僕の仕事着だよ。」
「え?白衣じゃないんだね」
「白衣?」
「僕の世界では医者は白衣って言って白い服を着るんだ。」
「そうか…もちろん処置するときはこの服じゃないけどね。
あ、君には白衣を着てもらうよ。もちろん顔も昨日と同じようにね」
そう言ってイネ=ノはウィンクをして見せた。
そんなこんなで僕はまた桜倉先輩の顔になっていた。
異世界人の僕がこの世界にいる事は他の誰にも秘密なのだから。
「アスティーヤの前でもこの顔?」
白衣の襟を正しながら言った。
「いや…そのときは昨日みたいに戻してあげるから安心して。
あ、バイオリンも忘れずにね。」
「うん。今日はもう弾く曲を決めてあるんだ。」
「どんな曲だい?」
「明るい曲だよ」
にこりと微笑んでみせる。
「僕も楽しみだよ。
さて、今日は飛んでいこうか?」
「え?飛ぶって?」
と、イネ=ノの体が一瞬まばゆい光に包まれたかと思うと、
一番最初に出会ったあの、上半身は人間、下半身は馬の姿に変わっていた。
解っていてもやはり驚いてしまう。
「風も気持良いし竹人、宮殿の外を見たがっていただろう?
さぁ、僕の背中に乗って」
そういいながら足を折り屈んでみせる。
「あ…じゃあ…失礼して」
バイオリンケースを肩に引っ掛けるとイネ=ノの肩に手を突きながら
背中にまたがるとイネ=ノはゆっくりと立ち上がる。
先日同じ半馬人の背中に乗っていたのよりも少し高く感じたのは気のせいだろうか。
それに、自分の体が風のように軽く感じるのだ。
「じゃあ、しっかりつかまっててね。」
そう言われイネ=ノの両肩をつかんだ。
誰が開けたでもなく、自然とバルコニーに続く扉が開く。
冷たく透き通った風が部屋に一気に流れてきた。なんとも心地が良い。
外に出ると庭で咲いている花の甘い蜜の香りが香ってくるのがわかった。
イネ=ノが天を駆け上がる。
ふわりと羽が宙を舞うようにまるで自分が空を飛んでいるような感覚を覚えた。
「わぁっ!」
思わず声を上げる。
気がつくと先ほどいたバルコニーがまるでおもちゃの模型のように小さく見えていた。
そして宮殿が一望できて驚いた。
宮殿一つが花のような形をしているのだ。
薔薇のような花の形をしていて僕がいた部屋は花びらの一部分に当たる。
ガラス色をしていてその花が宙に浮いているのだ。
なんとも不思議で幻想的な光景である。
空と花のずっと下のほうには果てしなく草原が広がっていて所々に村や集落が見える。
川は流れ地平線のかなたまで続き何か大きな動物の群れが走っているのが見えた。
空はガラスのように透き通っていて青く気持ちがよい。
上空では強い風が流れているのかと思っていたのだがそれほど強くはなく
また寒くもなかった。
むしろ、イネ=ノの体に触れていると体全体が温かくなっているのがわかった。
考えてみたらイネ=ノは神様なんだ。
その神様の背中にまたがって飛んでるって、実はかなりすごい事なのでは…。
「どうだい?これが見たかったんだろう?」
「うん!すごいよ!!こんな景色生まれて初めて見たよ!!
すごいなぁ…」
「ところで、竹人。アスティーヤの宮殿に行く前に話しておくことがあるんだ。」
「え?」
「アスティーヤの心が壊れた原因さ。
またキク=カのときみたいに混乱させたら申し訳ない。
少しだけ話しておくよ」
「………」
「アスティーヤは強い裏切りにあったんだ。
アスティーヤは争いをとても嫌う人だったんだが
民が戦争を始めてしまったんだ。
なんとか彼女は止めようと必死だったんだが願いは叶わず…。
自分が信じていた人たちに裏切られた。
そこで心に深い傷を負ってね…。
人を信じられなくなってしまったんだ。
何百年もの間宮殿に閉じこもってしまって、そのせいで下界は荒れるばかり。
最近になってやっと僕と会う事を許してくれてね…。
だが予想以上に病状が深刻だ。
もう寝たきりな状態が数百年続き零れ落ちる記憶はなんとか食い止めているものの
先に失明して光を失ってしまった。
この病気を君は楽器一つで治したと聞いてね、ぜひアスティーヤにもその力を借りたいと思ったんだ。」
「…そんな事が…。」
思わず息を飲む。
人の裏切りによって心が壊れ何百年も引きこもってしまっていたなんて…。
何故だろう、どこかしら秋桜ちゃんと重なるところがあった。
秋桜ちゃんが僕をなんとなく拒絶しているような、そんな気もしていたからだ。
「あそこに光の門があるのが見えるかい?」
イネ=ノが指差す方向を見ると、
そらに丸いドーナツのような光の輪が浮いているのが見えた。
それも一つじゃない。
あちこちにところどころと、昼に輝く星のように点在している。
時折キラキラと光を放っているみたいだった。
「あの中をくぐるよ。ちょっとまぶしいから目を閉じたほうがいいかもしれない。
じゃあ、行くよ?」
イネ=ノのスピードが急に上がり光の輪に近づく。
近づいてみると思った以上に大きく金倉の鶴岡八幡宮の鳥居の倍ぐらいはありそうだ。
リングの光が太陽のように強い光を発していて輪の先はまぶしすぎて何も見えなかった。
あまりのまぶしさに目が痛い。
思わずぎゅっと目を閉じうつむく。
それでも瞼の向こうから強い光が差し込み痛みを伴うほどだった。
片手の腕で目元付近を覆う。
やがて…どれくらい立っただろうか、耳元で流れていた風の音はいつしか止み
静寂に包まれた。
「ついたよ」
イネ=ノの合図でそっと目を開ける。
外は明るかった。
空は先ほどと変わらぬ青空、
林や花が咲き乱れる美しい場所だった。
ただ、木や花々はガラス色で角度によって七色に光を放ち美しかったが
どこか冷たさを含んでいるような気がした。
少し離れたところに小さな宮殿のような建物が見える。それもやはり
ガラス色で出来ていた。
ゆっくりとイネ=ノの肩から降りて地に足をつけた。
「ここは?」
「天秤座守護神のいる宮殿、の庭さ。」
「綺麗だね…」
ゆっくりとあたりを見回した。
確かに綺麗だ。
だが…。
ガラスは綺麗だが冷たく感じる。
そう、まるで氷のようだ。
ためしに足元に咲いていた花にそっと触れてみると一瞬その冷たさに驚いたが
よくよく触ってみると氷ほどまでの冷たさはない。
ただ、ガラスのような冷たさはあった。
そう…花なのに、草なのに、
冷たいのだ。
いるだけで体温が下がり寒気を覚えるようなそんな冷たい世界。
思わず身震いして鳥肌が立っているのに気がついた。
イネ=ノの体がふわりと光り人間の姿に戻る。
なんだろう…イネ=ノの紫のコートとこの世界の色が妙にマッチしている。
「これもアスティーヤのせいなんだ」
「え?」
「この世界全てはアスティーヤの守護下にある。
アスティーヤが体調を崩せばこの世界にもなんらかの影響があるってことさ。
植物や木はすべて色を忘れてしまっているんだ。
もう何百年もこの状態が続いている。
下界はもっと寒いよ。
雪が深くて作物が育たない。
人々が飢えて死ぬ一方それでもまだ戦争をやめようとしない。
これじゃいつまでたってもアスティーヤは宮殿から出てこないだろう」
雪…。確かにこの世界は冬の色をしている。
雪こそ降っていないがとても寒い。
つまりアスティーヤの心が雪のように冷たいという事なんだろうか。
宮殿に向かって歩を進める。
イネ=ノの宮殿よりもずいぶんとこじんまりしている。
「思ったより小さいんだね、天秤座は」
「え?ああ…ここはアスティーヤの寝室だよ。
この庭もアスティーヤの部屋の中なんだ。宮殿は…そうだね
僕やキク=カよりは小さいかな?守護する星の数が少ないからね。
でもとても美しい宮殿だよ。あとで見るといい」
そうか…そうだよな、宮殿がこんなに小さいわけがない。
ただ、寝室にしてはでかすぎる気がした。
やっぱりそこは神様なんだ…。
やがて宮殿の前に立つ。
白っぽく冷たいガラス色をした半円型のドーム状で頂上部分には水晶の花のようなものが付いている。
入り口はドアではなくカーテンが掛かっているだけだった。門番はいない。
イネ=ノがそっとカーテンをめくる。
僕もその後を続いた。
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