第七章:神様の僕2

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洗い立ての洗濯物のような、すごく安心できる優しい香りがした。
寒気はもうなく、体がぽかぽかと暖かく心地よい。

もう悪夢は終わったのだろうか?
まだもう少しこのまま眠っていたいくらいだった。

ああ…今何時だろう。
学校行かなくちゃ。
遅刻しちゃう!

はっ!と我に返り目を見開いた。

そこは大きな、布でできた箱のようだった。

天井にはえんじ色の布地に金色の刺繍が入っている。
小学校のときに天体観測で使った星図版のような模様だ。

横たわった位置から見える三方の側面には綺麗な刺繍の施された
明るいベージュ色のカーテンが掛かっていた。


…ここは…どこだ?

ゆっくりと体を起こし、
そこが一つのベッドの上だと知る。

なんて大きな…。

キングサイズなんてもんじゃない。

純白のようなまぶしい白で統一された寝具、
それに麻のような淡い色をした、だが絹のような肌触りの
ワンピース型のパジャマとズボンを着せられている。

さっきの石牢とは天国と地獄ほどの差があるほど美しい世界だった。

だが、なぜ僕はこんなところに眠っていたのだろうか。

そうだ…入間は?
やっとのことでベットの端までたどり着くと
カーテンをめくってみせた。

そこでまたため息が出る。

一体何畳、いやここはどこかのホールなのか?というくらいに
あまりにも広い部屋がそこには広がっていた。

ベルサイユ宮殿のガラスの間のように、とにかく広く
壁や天井の装飾も半端ではない。
ガラスの代わりにたくさんの半円形の窓が壁にびっしりと並んでいた。
床にはえんじ色のふかふかのカーペットが敷かれている。
少し離れたところに本棚や書斎机などの
家具が置いてテーブルセットもあった。

どれも装飾がどこの貴族のものだと思わせるほど
細やかな美しい装飾が施されている。

一体ここはどこなのだろう…。

ふと、少し離れたところにあったクリスタルガラスのようなテーブルに目が留まる。

僕の荷物!!
思わず駆け寄った。

クリーニングしてくれたのだろうか?かつての白さを取り戻した制服、
かばん、それにバイオリンケース!!

良かった!!

一応中身を確認してみるが
間違いなくそこには僕のバイオリンが納められていた。

もう一度、ほっとため息をついた。

ここはどこなんだろう?

窓の外に目をやる。
外は明るい。
今は朝だろうか?日差しが柔らかく白い。

外に半円形のバルコニーがある、他の窓よりも少し大きい窓を見つけた。

そこから出て外の様子を伺おうかとしたとき、
ちょうどその窓に青白い光が差し込んだのだ。

その光はだんだんと強さを増してくる。

何かが来る!
そう直感した。

もう面倒に巻き込まれるのは本当にごめんだった。

慌ててすぐ近くにあった本棚の後ろに隠れると、
しゃがんでその様子を静かに見守った。


光は依然と強くなるばかりだ。

とうとう部屋一面をまばゆさで包み込んだ後
暫くして
窓の扉がそっと開いた。

思わず息を飲む。

ふわりと何かが飛んできたのだ。

とても大きなものだ。

自分の体の倍以上はあるのではないだろうか?

空から舞い降りてきたように見えた。
それが床に足をつける。

自ら光っていたそれは次の瞬間から弱まり
窓のそとから差し込む太陽の光を背にして立った。

その物体が光っていたのと、夕日の逆光で目がまだくらんでいて
一体何が部屋に入ってきたのかはわからない。

その物体は僕の荷物が置かれたテーブルの前まできて止まった。

荷物を眺めているようだ。

やがてクスリと笑い声が漏れたのが聞こえた。

何故笑うのだろう。
正体不明のその物体が不気味で仕方が無かった。

と、
足音がこちらへと近づいてくる。

やばい!
見つかったか?!

しかし逃げ場がない。

どうする?!

身をかがめたまま頭の中ではパニックを起こしている。

と、

「やぁ」

頭の上から声が降ってきて、
思わず驚く。

恐る恐るぎゅっと閉じていた瞳を開き、顔を上げた。

が、次の瞬間
僕は悲鳴を上げていた。

「わぁっっっ!!!!」

ほかに言葉が見つからなかった。

だってそうだろ?

目の前に半馬人がいたのだ。
しかも、
しかもだ
顔をみて一体だれが冷静でいられよう。

僕だ。

僕がいたのだ。

下半身は馬。だが上半身は人間で
その顔が僕そっくりときている。

これが悲鳴をあげずにいられるだろうか?

「フフ…ごめんね。驚いた?」
僕にそっくりな半馬人はにこりと微笑んで見せた。



「そんなところにしゃがんでないでこちらへ出ておいで。
大丈夫。君に危害を加えるつもりはないよ」

穏やかな表情で微笑みながら僕を本棚の裏から出るように促した。

なんだろ、自分の顔した人間、いや半馬人に言われると
妙な気分になってしまう。

しかし、見たところ草原でみた半馬人や兵士たちのような
凶暴さや敵意などはまったく感じられなかった。

おそるおそる本棚の後ろから出ると
促されたソファへそっと腰を下ろした。

「こんな姿じゃ驚くのも無理ないね」
またふわりと彼の体全体に光が生まれたかと思うと
次の瞬間、彼は人の姿に変わっていた。
上半身も下半身も、全てが人間そのものの姿をしている。

はぁ…
思わずため息をつく。

本当に一体なんなんだ?


テーブルを挟んだ反対側の席に彼も座った。
そしてにこりと微笑む。

「お茶でよかったかな?」
「え?…あ…はい…その…」
お構いなくという言葉をこの後つけるべきかと悩んでいると
それよりも早く顔を上げて少し大きな声で言った。
「アキレス、お茶を」

すると僕の背中のほうから扉が開く音がして誰かが
カチャカチャと食器の音をさせながら近づいてきた。

やがてテーブルの前にお茶と果物が並べられた。

給仕の顔をそっと見上げ思わず声を上げた。

「入間!!」
先ほど僕を牢屋から助けてくれたその人物、
入間が立っていたのだ。

僕の顔をみて入間はまたにこりと微笑んで見せると
仕事を終え、また部屋の外へと出て行った。

呼び止めようとしたのだがそれを僕のそっくりさんが手で制してとめた。

「どうやら彼のことが気に入ったみたいだね?」
お茶をどうぞと進められたので
仕方が無くいただきますといって一口カップに口をつけて飲んだ。

!!

「おいしい!!」

「お口にあったようで何よりだよ」

いや…しかし…これは…
この味は…!!

「カモミールティーだよ」
にこりと微笑んで僕の疑問への答えが述べられた。

驚いて顔を上げる。

「君が持ってきたのとほぼ同じもののはずだよ」

なぜ僕がカモミールティーを持ってきた事をしっているのだろうか?
味はあの少女しか知らないはずなのだが…。

「私の名前はイネ=ノ」
やっとのことで僕のそっくりさんは名前を述べる。

イネ=ノ?
そういえば兵士たちが僕の事を最初そう呼んでいた。

そこで気がつく。

そうか…顔が似てるからこのイネ=ノって人と僕を間違えたんだ…

「君が射川竹人君だね。話は聞いたよ。いろいろと大変だったみたいだね。」

思わず大きくため息をついてしまった。

やっとこの世界で僕の見方が現われたような気がしたからだ。

「もう君に危害を加えるやつはいないよ。ゆっくり肩の力をぬいて大丈夫さ」
イネ=ノはにこりと穏やかな笑みを強めて見せた。

しかし…本当に僕に似ている。
いや、僕そのもののような気がした。
声は僕より気持ち低いような気がしたがそれでも
やはり姿かたちは僕そのもののような気がした。

あまりにもじろじろと見すぎたせいかイネ=ノはティーカップを口に運ぶのを止めて
僕を優しく見つめた。

「君が戸惑うのも無理ないだろう。だがどこから話すべきか少々悩んでいてね。
君をなるべく動揺させたくはないのだが…」
カップをソーサーへと置く。
「なにか君から聞きたい事はあるかい?」
僕もイネ=ノについでカップをソーサーに置いた。

「あの…ここはどこなんですか?」

「ここは…君の世界で言うと、射手座ってわかるかい?」
「はい?…射手座…って星座のですか?」
ちなみに僕も射手座生まれだ。
「そう。この世界は君らの世界で言う星座の世界そのもの、なんだ。
それぞれの星座には守護神がいて星を守っている。
そして今いるここが射手座になるわけだ。」

「え…」

言葉を失う。
ファンタジーの世界はまだまだ続いているようだ。

「ちょっと信じがたいかもしれないが残念ながらこの世界では
これが現実なんだ。
僕から言うと君たちの世界の方が信じられないくらいだよ。
これでおあいこって事にしておこう。」

「僕のいる世界を知っているんですか?」
「ああ…違う次元に存在する世界。
その世界にはいくつもの神がいてそれぞれの信仰対象者の拠り所になっている。
だが実際に姿を現す事はなくこの世界から比べるとかなりあいまいな存在だね。
君の世界は人類が惑星の中心的存在となりさまざまな発展を遂げている。
かなり興味深いね。」

「この世界では神様は実在しているんですか?」
するとイネ=ノはまたにこりと微笑んで見せた。

「そうさ。それは現に今、君の目の前にもいる」
「え?……まさか…あなたも神様なんですか?」

「“イネ=ノでいいよ。そう。僕は射手座を守護する神として存在している。」

思わず言葉を失う。

正直その話を完全に飲み込むには少し時間がいりそうだ。
それに、神様ってそんな簡単に人の前に姿を現していいものなんだろうか?
なんとなく神々しさがなくなってしまうような気がした。
だが先ほど半馬人から人の姿に変わったり…
そういうのは神だからこそ成せる業なのかもしれない。

「あの…僕はもとの世界に戻る事はできるのでしょうか?」
この世界にきて一番知りたかった質問だ。

「そうだね。君は帰るべきだ。
だが私一人の力ではどうにもできない。
君に会わせたい人物がいてね、その人物が君の事をいろいろと教えてくれたのも事実なんだ」
「え?」
「君がくるのを僕は前もって知っていた。
これに見覚えがないかい?」
イネ=ノの手のひらに光が生まれたと思うと次の瞬間、
中からふわりと一羽の蝶が現われた。

「あ!」
この蝶は!!
一番最初、この世界へ来たときに会った蝶だ!

ガラスのように透き通った桜色の羽。
間違いない。

「君がこの世界に来る事を知ってね、この子に探させたんだ。
うまく君を見つけることができたんでね、周辺の町に
記憶喪失になった僕がいるから保護して宮殿につれてくるように伝えたんだ。
途中うまく話しが伝わってなかったみたいで君をひどい目に合わせてしまったね。
そこは申し訳なく思うよ」

「いえ……そうだったんですか…」

神様が記憶喪失でその辺を歩いている…なんて突拍子も無い…。

「たしかにちょっと無理のある筋書きではあったけれどね、
残念ながら小さな村で僕の顔を知っているのは兵士ぐらいだからね。
神宮の者がいればよかったのだが土地が広すぎて全てを
管理しきれないのが現状でね、少々情けなくもあるがなんとか君を見つけることができて
ほっとしているところでもあるよ。」

「あ…そういえば」
そういいながら僕は左手の小指にはめてある指輪を見せた。

「この世界に来たらいつのまにかこれが指にはまっていたんです。
兵士や村人たちがこれをみて何か言っていました。
これは一体なんなんでしょう?」

「ああ、これね」
そういいながらイネ=ノも左手を差し出した。
小指には僕とまったく同じ指輪がある。

「左手小指に指輪をはめるのは神、もしくは神宮、つまり神の使いである事を指している。
石の付いている指輪が神、石の付いてないものが神宮、つまり神の使いである事を示しているんだが、
村人はそこまで詳しく知らなかったんだろう。君を神宮と勘違いしたみたいだね。
さすがに兵士は知っているはずだから君を拷問にかけたときそれに気づいて
かなり焦ったみたいだよ。
まさか自分が神様を拷問にかけてるなんて夢にも思わないからね。」

それで指輪にあんなに反応してたんだ。

「あ、でもちょっと待ってください。僕は神様でも神様の使いでもなんでもないのに、
なんで指輪をしているんですか?」
「そこなんだよ。射手座守護神は僕一人しか存在しないはずなのに
もう一人、異世界から同じ指輪をしたものが現われた。
何故だろうか。それを僕も知りたくてね、君をこうしてここへお連れした訳なんだ。」

そうだったのか…
イネ=ノも全てがわかっていたわけではなかったんだ…。
少し愕然としたがとりあえず身の安全が確保されただけでも
この場はよしとしておいたほうがよさそうだ。

「明日、君の事を話してくれた人に会いに行くから君にも一緒に来てほしいんだ。」
「え?あ…はい…」
「その人は蠍座守護神でね、予知能力がある。
君が来ると予知して僕に教えてくれたんだよ。」
「予知能力…」
少し神様めいて来たような気がした。
「あ…じゃあ…あなたにはどんな力があるのですか?」
手のひらで蝶を遊ばせていたイネ=ノは僕の質問ににやりと口の端で笑って見せた。
「医術だよ。
人や神の病を癒す力を持っている。
だが君にもどうやらその力があるようだ。
その楽器でね」
イネ=ノの手のひらの中で遊んでいた蝶はふわりと舞い
僕のバイオリンケースの前まできてその周辺をひらりひらりと
飛び回った。

「どういうことですか?」

「最近君が現われた村周辺で奇病が発生していてね、
強い精神的ショックで心が壊れ失明する病気さ。
君も患者に会っているはずだよ。
瞳の色が黒く変化しいずれは失明し心も壊れてしまう。」

“心が壊れる”…。
メグサや女の子も同じ事を言っていた。

「あの…心が壊れるって…精神崩壊みたいなものですか?
村でその病気の話を聞いたとき“心に強い痛みが生じる”って聞きました。
それはどういうことなんでしょう」

蝶が舞った。

ひらりひらりと舞いながらやがて僕の飲んでいたティーカップのソーサーまで来てとまった。

「君の世界とはいろいろと勝手が違うみたいだ。
君の世界では“心が壊れる”という表現はまた違う意味みたいだね。
こちらでは、肉体が滅びるのと同一なんだよ。
心が壊れる、つまり肉体が滅びてゆく恐ろしい病気なんだ。
体の感覚が徐々に麻痺しまず第一症状として笑顔を失う。
次に全ての表情を失い寝たきりになる。
やがて末期になると瞳から脳内にあった全ての記憶がこぼれだし
失明し心、つまり体が腐り、最後死に至る。」

そんな…
そんな恐ろしい病気だったのか。
じゃあ…メグサのお母さんはかなりひどいところまで病状が進んでいたことになる。

「新宮の者たちに調べさせていたんだけどね、なかなか難しい病気で
簡単には治せない。
それを君は楽器一つで糸も簡単に治してしまった。
やはり僕らが瓜二つなのと言いその指輪といい何か関係していると思わざるを得ない。」
「あの…僕の世界でこのバイオリンを弾いても病人は完治しません。
音楽療法のような事はやっていましたが気休めにすぎません。
なのに、なぜこちらの世界だとそんな力が出るのか、僕にもよくわかりません」
「だろうね。君がこの世界にいるというだけでも信じがたいというのに。
いや…はじめてなんだよ。
異世界から誰かが渡って来ただなんて僕は生まれてこの方一度も耳にしたことが無い。」
「そういえば…あの……、金髪で緑色の瞳をした白人男性に心当たりはありませんか?」
「え?」
「この世界に来る直前、その人に出会って道案内されたんです。
その道をたどったら、気がついたらこちらの世界に来ていました。
もしかしたら何か関係があるのかもと思ったのですが」
「うーん…金髪緑眼の白人男性といわれても…この世界にはそのような者が大勢いるからね…
特定は難しいかな」
「そうですか…」
確かに情報が少なすぎたかもしれない。
「その話も後でキク=カの前、おっと失礼、蠍座守護神の名前がキク=カというのだが
彼の前でも話してもらえるかい?」
「はい。わかりました」
僕は素直に返事をするともう一度カップに口をつけた。
一口飲む。
「あ、そういえば、どうして僕がカモミールティーを持ってきた事を知っていたんですか?
村であった女の子以外誰にも話していないのに。」
「キク=カから一通り聞いたんだよ。
変わった名前の飲み物だなとは思ったんだが、花の種で作るお茶のことだったんだね。
キク=カのところにたくさん植物があってたまたま似たような品種の花があったんだ。
それでお茶を淹れさせてみたんだよ」
「そうだったんですか…とてもおいしいです。」
にこりと微笑んで見せた。
そのキク=カと言う人物、かなり強い力を持っているようだ。
これならもしかすると本当に元の世界に戻れるかもしれない。

「そうだ…」
そう言ってイネ=ノは席を立ち上がりクリスタルガラスのテーブルの前まで
歩いてとまった。

バイオリンケースに手を置いて言う。
「僕も一度この音色を聞いてみたいんだけど、
演奏してくれないかい?」
「え?ああ…はい。」
そう言って立ち上がると
バイオリンケースのところまで行く。

あれ?

そこで気がつく。

僕よりもイネ=ノのほうが頭1つ分以上背が高かったのだ。

にこりと微笑むイネ=ノ。
思わず僕もつられて微笑んで見せた。

ケースを開ける。

「おお…なんと美しい」
渋い琥珀色のバイオリンを見てイネ=ノが声を上げて喜ぶ。
「これはバイオリンという楽器です。」
ケースから取り出し持ち上げて見せた。
肩当てを本体に取り付け弓を出し構える。

「どういった曲がお好みですか?」
すると少しだけイネ=ノは首をひねって考え込むポーズをしてみせた。
「そうだなぁ…じゃあ病人の前で弾いたという曲を聴いてみたい」

そこで僕はメグサの母親の前で弾いたタイスの瞑想曲を演奏し始めた。

穏やかに、緩やかに
旋律は弦の上を流れるように走る。

窓からこぼれる日の光が音色にかき混ぜられるようにきらきらと反射しているように見えた。
その中を音色にあわせて蝶が舞った。

なんと水彩画のような幻想的な景色なのだろう。

僕は思わず演奏しながらその淡い景色に見とれていた。

やがて4分ほどの曲が静かに終わる。

弾き終わり弓を下ろす。

イネ=ノはいつの間にソファの肘掛に腰を下ろして
とてもうれしそうに目をキラキラさせながら座っていた。


「すばらしい…!!
なんて優雅な音色なんだ!
そのような音色は初めて聴いたよ!!神玉の指輪をしているだけはある。
やはり君は選ばれし者だったんだ!」

「あ…有難うございます。」
そこまでほめられるとさすがに恥ずかしくて照れてしまう。

「良かったら弾いて見ますか?」
そう言ってバイオリンをイネ=ノの前に差し出して見せた。

「いいのかい?」
「はい」
返事をしながらイネ=ノに簡単なバイオリンの構え方を教えた。
「そうです、はい、弓はこう…手首をもうちょっと内側に向けて…
はい、そんな感じです」

「ほほう…これでここをこすればいいんだね」
「はい。」

イネ=ノがバイオリンを構え
弓を弦に引っ掛けてみせた、
と次の瞬間、
いきなりタイスの瞑想曲を弾きだしたではないか。

たった今、生まれて初めてバイオリンを構えたばかりなのに
いきなり曲を弾けるなんて?!

途中まで弾いてイネ=ノは手を止めた。

「なるほど…非常に面白いね」
「……すごい…なんで…」
僕が驚いているとイネ=ノは目を細めて笑って見せた。

「言い忘れてたね。僕は医術をつかさどっているが音楽もそれなりにね」
とウィンクしてみせた。

イネ=ノはその後、暫くバイオリンを手に取り斜めにしたり
裏側を向けたりしながら眺めていた。


「なるほど…この楽器は多くの人の心を癒してきたんだね。
だからあのような業に力を貸すことができたのかもしれない」

「え?」
「今このバイオリンが教えてくれたよ。君のお父様やお爺様の事、
君がどれだけ一生懸命練習したかもね。」

「そ…そうなんですか…」
すごい…楽器と会話ができてしまうのか…。さすがは神様である。

「ああ…そう言う事か…。」
またイネ=ノはニコニコと笑って見せた。
「イルマ君というんだね?君の友達は」
「え?!そんな事までわかっちゃうんですか!!」

「だからアキレスにあんなに反応していたのか。
アキレス!」
そう言って扉のほうに声を掛けた。
すぐに扉が開きアキレスがやってくる。
やっぱり入間と瓜二つだ。
ただ服装がヨーロッパの貴族みたいな立派過ぎるものなのでなんだか入間にしては
かっこよすぎる。
僕の知っている入間よりも少し凛々しい顔付きをしていた。
「お呼びでしょうか、イネ=ノ様」
「ああ、紹介するよ。
彼は僕の弟子のアキレス。
アキレス、こちらは先日話した異世界からのお客様だよ。
射川竹人君。やはりキク=カが言っていた事は本当のようだ。
アキレス、君のおかげで彼を救うことができた。
改めて感謝するよ。」
イネ=ノの言葉にアキレスは一度軽くお辞儀して見せた。

「はじめまして、タケト様。私はアキレスと申します。
何か必要なものや困ったことなどございましたら遠慮なく私にお申し付けくださいませ。」
そういって軽く頭を下げて見せた。
「あの…先ほどは有難うございました。おかげで命拾いしました。」
「いえ…通達を無視した兵士たちが悪いのです。
罰を与えたいと思います」
「え?いや…それは…」
思わず困惑する。
確かに酷い目には合わされたけど罰を与えるほどではないような気がした。
するとイネ=ノがにこりと微笑んでみせた。
「君は優しいんだね。君に権限をあげよう。どのような罰がいいかな?」
「いえ…あの……。
ああ…じゃあ今後から通達はちゃんと確認するようにって事でお願いします。」
イネ=ノとアキレスは顔を見合わせて笑いだした。

「さすがは…!わかったよ。そうしよう。
いやぁ、彼も泣いて喜ぶと思うよ。
話によると君に極刑を言い渡されると思い込んで体重が激減したって
聞いたものだからね。」

思わず苦笑いをして見せた。
確かに首をつられそうになったり頭を踏みつけられたりはしたが
一度は通達を受けて僕を宮殿近くへと連れてきてくれたのだ。
それに最後には分かってくれたみたいだし…。
別に何かの刑を与える必要は無いだろうし僕は人を裁けるほど偉くはない。


「そうそう、竹人。明日キク=カに会ってもらおうとは思うのだがそれまで
時間がある。君の世界とは時間の流れ方も違うようだ。
君の世界での一日はこちらでは三分の一、つまりこちらでの一日は
君の世界で三日間たつのと同じ長さだ。
だから時がたつのを長く感じるだろう。
どうだろう、明日まで時間があるから君の世界の事をゆっくり聞かせてはもらえないかい?」
再びソファに戻り腰を下ろすとイネ=ノは僕を見据えながら微笑んで見せた。

どうりでなかなか日が落ちなかったわけだ。
そうか…時間の流れが違っていたのか…。

「わかりました。ぼくの中でお話できる範囲は限られていますがそれでもよければ」

僕もソファに腰を下ろす。

アキレスは一礼すると
僕の肩の上に止まっていた蝶と一緒に部屋を出て行った。


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