第十三章:星の石板2

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なんとも気分の悪い目覚めだった。

せっかくイネ=ノに薬湯をもらったのに…。

うなされながら目覚めるなんて、目覚めとしては最悪以外の何物でもない。

おまけに寝汗までかいてパジャマやシーツが湿っぽく濡れていた。

久しぶりに夢の中で会えた弟の凍てついたつめたい目。
闇の中でガラス玉のようにキラキラと光っていたのがあまりにも印象的で
脳裏に焼きついたまま離れない。

思わず背筋がぞくっとした。

あんな変わりきった表情の弟を僕は生まれてこのかた一度も見たことがない。
病気で苦しんでいるときとはまた違った、ひどく醜くゆがんだ表情であった。

怖い…。

ああ…よりによって。
今日やっと現実の世界に戻れるという日の朝に限ってこんな夢をみてしまうなんて…。
ただでさえ穏やかでなかった心にとどめを刺されたような気分になった。

「竹人様、起きていらっしゃいますか?」

天蓋カーテンの向こうからアキレスの遠慮深げな声が聞こえてきた。

ああ…やっと夢を断ち切る声が向こうから聞こえる。

ほっとしてため息をつくと
ゆっくりとベッドから這い出した。

「おはよう、起きてるよ」
笑顔を作ってカーテンをめくった。

そこには予想を覆しなんとも難しそうな表情のアキレスが立っていた。

「?どうしたの?」
「あ…いえ…おはようございます。
その…今日お帰りになられるのですよね。
でしたら…お渡ししたいものがございます。」
「え?なに?」
ゆっくりとベッドから立ち上がると前髪を軽く書き上げて見せた。

「これを、お持ちください。私からのささやかな気持ちです。」
そういいながら手のひらにちょこんと乗った小さなえんじ色の巾着を差し出して見せた。

「これは?」
受取ると中をそっとあけてみせた。

「あれ…これ…光花の種?」
「はい」
「でも…実はこの前僕も持って帰ろうかとしたんだけど
イネ=ノに僕の世界で何が起こるかわからないから持って行かないほうがいいって
とめられたんだ…」
「ええ…ですから内緒ということで」

アキレスの意図していることがよくわからず思わず小首を傾げて見せた。
「申し訳ありません、立ち聞きするつもりはなかったのですが昨夜のイネ=ノ様とのお話が
聞こえてしまいまして…。
竹人様の世界にも星座守護神が存在するかもと聞き、いてもたってもいられなくなってしまいまして…。
竹人様をこちらの世界に案内したという方にこの種を渡していただきたいのです。
必ずやそのお方の役に立ちます物ですから…。おそらく使い方もその方なら心得ているはずです」

使い方?
それにアキレスの言葉一つ一つがなんだか引っかかるような気がした。

つまりこれを羽鳥翼に渡せという事なんだろうか?

「解った…。じゃあ会ったら渡しておく。」
理解できないままだったがとりあえずその巾着を受取り
学生かばんのポケットのなかに入れた。

とそこにちょうどいいタイミングでイネ=ノが現われる。

「やぁ竹人。よく眠れたかい?」
きらきらとした紫色のガラス玉のような瞳でイネ=ノは優しくにこりと微笑んで見せた。

「うん。まぁなんとか…」
思わず朝見た夢を思い出し口に出そうになったところを慌てて言葉を飲み込む。

「いよいよ今日だね。
アキレス朝食の用意を。」
するとアキレスはそれにうなずくと珍しく小走りで部屋の外に出て行った。

「さて…」
そういいながらイネ=ノはソファに腰を下ろすと僕にも座るように促したので僕もイネ=ノとは
向かいの席にそっと腰を下ろした。

「寂しくなるよ…短い間だったけれど君と過ごした時間はとても有意義で楽しいものばかりだ」
「有難う、イネ=ノ。そう言ってくれると僕としても嬉しいよ。」
「忘れ物なんかしないようにね。もう戻ってこれないかもしれないから。」
「うん。」
「そうそう、もう少ししたらキク=カをこの部屋につれてくるよ」
「え?」
「キク=カの宮殿に寄っていこうかとも思ったのだけれど
キク=カがこの部屋に来たいというものだからね。
食事が終わったら連れてくるからそうしたらそこのベッドを借りるよ」
「うん。かまわないよ」
そう言いながらたった数分前まで眠っていたベッドを振り返ってみる。

そこへアキレスが朝食を運んできた。

「僕は先に頂いたから」と言ってイネ=ノはお茶にだけ口をつけた。
イネ=ノに見守られながら僕もゆっくりと食事に手をつける。

ああ…これで…この世界ともお別れなんだ。

軽く興奮してフォークをもつ手が小さく震えているのがわかった。
手も少し汗ばんでいるようだ。

落ち着け自分!

ティーカップを手に取ると自分を落ち着けるようにちょっとわざとらしくお茶の甘い香りを嗅いでから
一口くちを付け温かい液体を体の中に流し込んだ。

思わず小さくため息が漏れた。

慌ててイネ=ノに気づかれたのではとそちらを向いたが
イネ=ノは窓の外を眺めながらお茶に口をつけているところだった。

これ以上イネ=ノに気を使わせるのは申し訳ない。
それに今日が最後なのだ。
最後ぐらい気取られずお互い気持ちよく別れたい。

僕がデザートの最後の一口を食べ終わるか終わらないかのタイミングで
イネ=ノがすっくとソファから立ち上がった。

「じゃあ、キク=カをつれてくるから竹人はその服に着替えて待っていてくれ。」
ガラステーブルに置かれっぱなしだった学生服を目で指してイネ=ノはにこりと微笑んだ。

背を向けると同時にまた煙のようにふわりと姿を消した。

いよいよだ!

心臓が高鳴る。

いよいよ帰れるんだ!!

ティーカップに残っていた、まだ温かいお茶を一気に飲み干す。

いよいよだ!!

着ていたパジャマを乱暴にぬぎすてるも手が軽く震えている。

ああ、もう!

もどかししくもなんとか服を脱ぎ終えると
久しぶりの制服に袖を通す。

黄緑と白のストライプ柄のワイシャツ、真っ白なズボンとスーツ、
そして最後に姿見を見ながらネクタイをキュっと音を立てて閉めたその姿を見て安堵感を覚えた。

そう…これが僕だ。
これが僕の姿だ。

本来あるべき僕の姿…。

はぁ、とため息をつく。

頭の中でチャイコフスキーの弦楽セレナーデのワルツが流れ始める。
今朝みた不愉快な悪夢のことなど忘れ気がつくと僕は鼻歌を歌いながら
脱ぎ捨てたパジャマを丁寧にたたんでいた。

やっと帰れるんだ!
やっと…!!

「失礼します」
そこへトレーを思ったアキレスが朝食の食器を回収しに入ってきた。

「ああ…竹人様。置いて下さって結構です。私がやりますから。」
僕が軽くベッドメイキングをしようとシーツを持ち上げていたところで
アキレスが慌てて駆け寄りそれを止めた。

「お世話になったんだし…。このぐらいさせてよ」
「いえいえ、とんでもない。これも私の仕事ですから!」
「そう?じゃあ…」
そう言って引っ張り出そうとしたシーツを持つ手を離した。

「それにしてもその衣装、お似合いですよ。」
「あ、これ?有難う。うちの学校の制服なんだ。
これを着て毎日登校するんだよ。
あ、そうだ!アキレスちょっと着てみてよ!」
そういいながらスーツを脱ぐとアキレスの肩に引っ掛けてみせる。
「ほら、鏡見て」
姿見まで引っ張るとアキレスをそこに立たせ緑色のネクタイを締めて見せた。
「あは、入間の出来上がり!似合ってるよ」
「そうでございますか?」
アキレスはそう言って照れくさそうに微笑んで見せた。
なんだろう…
アキレスといると妙に安心感がある。
入間と同じ顔だから?
ただそれだけだからだろうか?

いや…

アキレスの後ろに立ち、彼の両肩にそっと手を置いて見せた。



「アキレス、短い間だったけれど本当に有難う。
僕がつかまったとき、君が来てくれなかったら僕は今頃この世にはいなかったよ。
本当に感謝してる。」
「竹人様…。」
窓の外から真っ白な朝日の光が差し込み部屋を柔らかく包み込んだ。
穏やかな空間が広がる。
「アキレスと僕の親友が同じ顔だったのもなんだかわかるような気がするよ。
本当にありがとう」
僕の手の上にアキレスの温かい手が重なる。
「竹人様。どうか元の世界に戻られてもお元気で。
私はあなたとお会いした事を一生忘れません」
「僕もだよ」
あ…なんだろう…なんか泣きそうだ。

それをぐっとこらえて下を俯いた。

ふわりと風が生まれる。
思わずアキレスの肩から手を離し後ろを振り返った。

あの光だ。
イネ=ノがはじめてこの部屋に入ってきたのと同じ、青白くとても強い光が
窓の外から差し込んできた。

「竹人様、有難うございます。」
そう言ってアキレスから制服とネクタイを手渡されたので
それを着込む。

やがて白い光の中から半馬人姿のイネ=ノがキク=カを背に乗せて現われた。
後ろに見慣れない少年が一人立っている。

「さぁ、こちらへ」
少年がベッドの掛け布団をめくるとそこへキク=カを誘導し横たわらせ、再び布団を掛けた。
「紹介するよ」
そういいながらイネ=ノがその青年を僕の目の前まで連れてきた。
年は僕と同じくらいだろうか。キョロっとした丸い目が印象的だ。
「彼はキク=カの世話役のスズ=タケ。キク=カを連れ出すのに色々と協力してくれたんだ。
今日一日彼も一緒だよ。
スズ=タケ、こちらが射川竹人君。異世界からのお客様だよ。」
するとスズ=タケと紹介された少年はにこりともせず真っ直ぐに僕の目を見つめ
手を差し出して見せた。
「はじめまして、スズ=タケと申します。どうぞ宜しくお願いします。」
「あ…はい、こちらこそ」
そういいながら彼の手を握ると、少し強く握られ驚いた。
もしかしたら無理やりキク=カを連れ出したものだから怒っているのかもしれない。

『竹人…その後変わりはない?』

キク=カのか細い声が天井から降ってきた。

ベッドの脇に立つ。
相変わらず透き通るような真っ白な肌が何度見ても痛々しい。
気のせいだろうか。
先日見たときよりも紅色の目の輝きが落ち、光の加減だろうか灰色に光って見えた。

「キク=カ、あの…この前は色々と本当にすみませんでした。」
『いや…気にする事はないんだよ』
やつれきった顔に無理やりな笑顔を作って見せた。
ああ…見てられない…。

そうだ!

「あの…もう一度僕のバイオリンを聴いてくれますか?
先日天秤座のアスティーヤという女神を治すことに成功しました。
もしかしたらキク=カにも少しでも効果が得られるかもしれません。
ですから…もう一度…」
「バイオリン?何のことですか?」
スズ=タケが無表情のままアキレスに小首を傾げて尋ねた。
「竹人様のお力は素晴らしいですよ。お聞きになればわかりますから…」
そう言ってアキレスはニコリと微笑む。
「イネ=ノ、いいかな?」
振り返ってイネ=ノの顔色を伺った。
「ああ、勿論だとも。」
イネ=ノもニコリと微笑んで頷いた。

「じゃあ…」
そう言って久しぶりにバイオリンケースからバイオリンを取り出す。

今度こそ。
少しでもいい。
ほんの少し、微力でもかまわない。
キク=カを楽にして上げられることができたのなら…。

今回選曲したのはヴィターリの「シャコンヌ」。

バイオリンを構え、弦に弓を掛けた。

重音から始まるその華やかで重厚なメロディ。

真っ直ぐに澄んだ音色が静かに部屋をゆっくりと包み込んで行く。

正直僕は今でも迷っている。
こんな状態の君を見捨てて帰っていいのかと。

君はなんとも思わないの?

イネ=ノから聞いた話が頭のなかで思い起こされる。

死にたくても死ねない、永遠に苦しみ続ける体を手に入れてしまった君に、
僕は何をしてあげられるだろうか。

このバイオリンの旋律で、ほんの少しでもいい。
たったの少しでもかまわないから
君の癒しとなれば…。

僕は君を救いたい。

君の心も体も…。

だって、見てられないよ。

かわいい弟と同じ姿をした小さな子供が
こんな痛々しい姿で永遠に苦しみ続けるのかと思うと…。

だから、
君に少しでもいいからこの音色を届けるよ。

この旋律が少しでも君の癒しとなるように。
君の傍で輝き続けられるように。

思わずバイオリンを弾く手に力が入る。

僕はただただ祈りながらバイオリンの演奏を続けた。

イネ=ノが言うように、もし仮に僕が現代での射手座守護神、つまり
神様だったら、その意思で願いを叶える事ができるのなら、
まずは真っ先に今目の前で弱弱しく横たわっているこのキク=カの体を治してあげたい。

指輪の奇跡を望んだ。

もうこれ以降バイオリンの力が消え去ってしまったってかまわない。
最後に全ての力をキク=カに与えたい。

どうか…
どうか…
キク=カ!

君にもう一度、
新しく生まれ変わる力を!!

もう一度新しく人生を踏み出せる人生を!!

どうか…

どうか!!

馬のけたたましい鳴き声のような高音を思い切り響かせビブラートをかける。

新しい力を!!

どうか…
どうか…

………

やがて10分弱の演奏が静かに終わりを迎えた。

僕がバイオリンから弓を下ろすと拍手が起こった。
イネ=ノにアキレス、それにあの無表情だったスズ=タケがうっすら笑みを浮かべながら
拍手を送ってくれていた。

ちょっと照れくさくなりながらも即座にキク=カの顔色をいかがった。

キク=カは目を閉じている。

何か変化は起きないのだろうか?
その奇跡を祈りつつ僕はキク=カの次の行動を見張った。

ゆっくりとその小さな瞳が開かれた。


瞳の色は…
先ほどと変わらず灰色のままである。

『竹人…素晴らしい演奏を有難う。おかげでずいぶんと楽になったような気がするよ』

しかし目に見える変化はない。

思わず愕然とした。

ここでまた奇跡が起こって
キク=カの瞳の色が戻り、ベッドから立ち上がるくらいのことをしてくれないと…。

もう一曲!とバイオリンを構えようとしたところで僕に肩にイネ=ノがそっと手を置いた。
「竹人、そろそろ時間だよ」
「…でも!じゃああと3分…いや1分でいいから!
もう一曲だけ弾かせて!!」

「竹人…気持ちはわかるが…帰れなくなっても良いのかい?」
「でも!!」
『竹人…ありがとう。もう十分だよ。さぁ急ごう。でないと本当に間に合わなくなってしまう』

キク=カのその言葉を合図にイネ=ノがキク=カを抱き起こし背中に乗せた。
スズ=タケが傍らでそれを手伝う。
アキレスが僕の荷物を運んでくれた。

なんで…だめなんだ…!!
何がいけなかったんだ?!

感情は込めたし他の皆とやってる事は変わらない。

選曲がいけなかったのか?
じゃ…じゃあ!
僕がバイオリンを肩に乗せたまま動かないでいるとアキレスがそっとバイオリンを
手に取った。

「本当に綺麗な楽器ですね。
久しぶりに美しい音色を聞いて心があらわれたようです。
さぁ、お支度を。」
「でも…」
思わず涙声になる。
アキレスの服の裾をそっと引っ張り、小さくつぶやいた。

「なんでだめなんだ…。なんで…」
僕の背中にそっとアキレスの手が回った
耳元でアキレスの小さな声が囁く。

「竹人様、大丈夫です。必ずやあなた様の力は効果を発揮します。どうかご安心を」
「え?」
思わず顔を上げてアキレスの顔を見た。
アキレスはニコリと微笑むと僕のバイオリンをケースにしまった。

一瞬混乱した。

なんだろう…この違和感…。

「竹人、落ち込むことなんてないよ。君がこの世界に来てくれただけで僕らは奇跡をもらったんだ。」
イネ=ノも微笑む。
「お早く。」
スズ=タケが表情をピクリとも変えないまま機械的な台詞を発した。
「では竹人様は私の背にお乗りください。」
え?
後ろでアキレスの声がしたので驚いて振り向く。

「わ!」
思わず小さな悲鳴を上げた。

いつのまにかアキレスが半馬人の姿に変わっていたのだ。

そうか…そうだよな…アキレスだって射手座の人間だ。
半馬人であってもなんら不思議ではない。

アキレスに促されそっと背中にまたがった。
見るとスズ=タケもイネ=ノの背に乗りキク=カを後ろから抱きかかえるようにして座っていた。

「よし、じゃあ行こうか」
イネ=ノのその言葉を合図に
ベランダの窓がふわりと開いた。


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