いつもと変わらぬ朝3

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玄関の扉を開けると、今朝窓に切り取られていた景色の、何倍も美しい
新緑の景色が視界いっぱいに広がっていた。

熱くもなく寒くもない、ちょうど良い陽気のなか、木々が波音のようなざわめきをたてながら
やさしくさらさらと輝いていた。

「気持いいなー」
思わず言葉に出して新緑の季節を喜んで見せた。
悪夢のことなんてこのころにはすっかりと忘れ、みどりの光を眺めて歩く。

それにしても秋桜ちゃんのパウンドケーキ…
「食べたかったなぁ」
思わず無意識に言葉に出していた。

うん。食べたかった。

天妙寺秋桜(てんみょうじ こすもす)。僕より一つ下の女の子。
先ほど話した愛理ちゃんとは対照的で
大人しくてあまり感情を表に出さないけれど
彼女のピアノを聴いたら誰だって…。

そう、誰だって心を持っていかれるに違いないのではないだろうか…。

彼女の母と僕の母が高校の同級生で久しぶりに会ったとき
彼女にピアノを習わせることにしたのだ。

私立の小学校が終わった後電車でわざわざ僕の家まで通ってきている。

数年前、家の音楽室から聞こえてきたピアノの旋律を僕は今でも忘れない。

冬の、ガラスのような透き通った空気の中、柔らかい日差しの如く静かに
優しいメロディが家の中をそっと包み込んだ。

そのとき部屋で勉強をしていた僕は思わず手を止め
階段をゆっくりと降りると
音楽室に通じる廊下をじっと見つめていた。

そこから体が動かなかった。
足が廊下の床に張り付いてしまったのではないだろうかと思うくらい
どうしてもそこから足を進めることができなかった。

ただ、

ただ静かに僕はその旋律にゆっくりと耳を傾けていた。

あまりにも音色が優しすぎて思わず頬を涙が伝う。

演奏が終わった後もしばらくそこに立ち尽くしていた。

やがてレッスンが終わって部屋から出てきた人物をみて僕は思わず驚いた。
もっと大人の人が弾いているのかと思ったら自分よりも小さい女の子だったのだ。

腰まで届きそうな長くまっすぐな、そう…日本人形のような黒髪に、
冬の景色が良く似合う透き通った白い肌、
ガラス球のようなきらきらした大きな瞳が廊下で立ち尽くす僕を見つけると
一瞥して玄関の方へと歩いていったのだが
僕は何も言えず振り返ることすらできなかった。

やっとのことで体が動かせたのは
玄関のドアが閉まる音がしてからだった。

とにかく、
僕は彼女のピアノの音色に心を持っていかれた。

それからは彼女のピアノのレッスンの時間になると
勉強の手を止め廊下で静かに演奏を聴いていた。

中学に入って時間帯が合わなくなってしまったため
最近その音色が聴けなくなってしまったのが非常に残念でならない。

まだずっと先の話だが12月にピアノの発表会がある。
そのときに僕も行くつもりだ。
もちろんピアノを弾くわけではない。
彼女の演奏を聴くためである。

今は何の曲を練習しているのだろうか…。

一番最初に聴いたのはドビュッシーの「月の光」だった。

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