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甘い香りがする。
これは…薔薇?
そうだ、薔薇の香りだ。
ああ…なんだろう…なんだか心地よい。
ずっとここで眠っていたいくらいだ。
ゆっくりと体を横にし寝返りを打ったところではっと目が覚める。
視界には真っ白な世界が広がっていた。
え?
ゆっくりと体を起こす。
天井も真っ白…ああ…ここはアスティーヤの部屋…って、え?!
思わず飛び起きる。
アスティーヤが先ほどまで眠っていた寝台に今度は僕が眠っていたのだ。
掛け布団のようなものがかけられ
枕元にはたくさんの桜色した薔薇の香りの花びらがたくさん散らしてあった。
床に落ちているのもたくさんありなんだかここだけロマンチックな空間になってしまっている。
イネ=ノたちは?
慌てて部屋を見渡すが室内には誰もいない。
カーテンが風で微かに揺れていた。
立ち上がると部屋の外へ飛び出した。
?!
思わず息を飲む。
先ほど、来たときのガラス色の景色ではなく、
まるで水彩絵の具で書いたような色鮮やかなパステル調の景色が世界一面に広がっていたのだ。
色とりどりの美しい花、
青々と茂る木々、鳥のさえずり、青い空…。
一体何が起きたというのだろう。
「竹人―!」
背後から僕の名前を呼ぶ声がして振り返る。
宮殿の脇にイネ=ノとアスティーヤが立っていた。
「え?!」
アスティーヤを見て驚いた。
先ほどの石像のような姿とはまるで別人のように血色がよく
生き生きとした優しい表情で僕をみて微笑んでいたのだ。
髪の色も薄く青みがかり色素が戻ってきていた。
横になっているときは気がつかなかったが立ってみると秋桜ちゃんよりも背が高く、
僕と同じかそれよりも少し高い。
それに秋桜ちゃんより少し大人っぽいような感じがした。
「竹人、具合はどうだい?」
イネ=ノとアスティーヤがゆっくりとこちらに歩み寄りながら言った。
「うん…大丈夫。すいませんでした」
そういってアスティーヤのほうに軽くお辞儀をしてみせた。
「私の方こそあなたにお礼を言わなくては。
本当にどうも有難う」
上品にそっと微笑んで見せたアスティーヤのその笑顔が秋桜ちゃんと重なって見えて
思わずまた胸がドキンとなった。
アスティーヤはにこりと微笑むと僕の手をきゅっと握って見せた。
白く柔らかい手はとても暖かいぬくもりを持っていた。まるで先ほどとは別人のようである。
「あの…、アスティーヤはもう大丈夫なの…?」
「いや…さすがにいきなり完治は難しいよ。
これから少しずつ治していかなければ。ね。」
そういってイネ=ノはアスティーヤににこりと微笑んで見せた。
アスティーヤも微笑み返す。
僕と秋桜ちゃんがにこりと微笑み合っている…
なんとも不思議な光景だった。
それはかつて僕が望んだ光景だったのかもしれない。
まだ僕の中ではそれは現実化していないが、
絵本の世界で空想画を眺めたような、そんなぼんやりとした淡い夢の現実が目の前にあった。
「実を言うと昨日もかなり危険な状態だったんだ。
気休めの処置しかできなくてこれからどうしようと悩んでいたんだが…
やはり君を呼んで正解だったよ。
僕からも例を言わせてほしい。
本当にどうも有難う。」
イネ=ノはにこりと笑顔を作る。
ああ…そういえば先ほど“昨日も”と言っていた。
昨晩、夕食の途中で指輪がナースコールみたいに点滅してイネ=ノが慌てて出かけたのは、
そうか、アスティーヤの容態が悪かったんだ。
それにしても…さっきまで何百年も病に伏せていた人が今は普通に歩いてにこにこしながら
会話を楽しんでいる。
奇跡だ。
僕のバイオリンの力を僕自身が信じられない。
だがしかし奇跡は今目の前で起きているのだ。
信じるしかないようだ。
しかし不思議なものだ。
それほどの重病患者を治せる力がいつの間にか身についていながら
自分の世界に帰ることは叶わない。
ちょっと油断すると僕は自分の世界のことばかり考えていた。
帰りたい。
そう…元の世界に。
夢のような世界の中でさらに淡い夢を眺めるのも正直悪くはないかもしれない。
だが…やはり…願いは最初から一つしか存在していなかった。
「竹人こそ大丈夫なのかい?いきなり倒れたから驚いたよ。」
「ごめん…なんか急に…」
「疲れているだろう。早めに帰って休んだほうがいい。
まだ顔色もあまりいいようには見えないし。
帰ったら薬湯を上げよう。それにもう少し横になったほうがいいだろう。
じゃあ、アスティーヤまたあとでくるからそれまでゆっくりしているといい。」
イネ=ノが手のひらから蝶を出した。
あのガラスの羽を持つ蝶だ。
「何かあったらまたこの子に言ってくれ。すぐに駆けつけるから」
「ええ…ありがとう」
そう言ってアスティーヤはイネ=ノの頬に軽くキスをした。
思わず顔が熱くなる。
変な汗が出てくるのも解った。
なんか、すごく目に毒な物をみていしまったような罪悪感である。
「イネ=ノ。あなたのおかげで私は色を取り戻すことが出来たわ。
あとは少しずつ下界の雪が解けるのを見守って生きたい。これもあなたのおかげよ。
何百年もずっとあきらめずに宮殿の扉を叩いてくれた事を本当に感謝するわ。」
「とんでもない。君は僕にとって大切なかけがえのない人の一人だ。
こうしてまた君の瞳を見つめながら会話できているのが本当に夢のようだよ。」
目を細めながらイネ=ノが微笑む。
途中からこの二人のやり取りを見るのが
何だか恥ずかしくなってきてしまって思わず目を逸らしている僕がいた。
するとアスティーヤはこちらに向き直る。
「竹人、本当に有難う。あなたの力には本当に感謝しています。」
「いえ…でも本当に良かったです…。」
思わず顔が熱くなる。
「明日帰ってしまうのね。せっかくお会いできたのにとても残念な気もしますが
お引止めするわけにもいかないわね。
お見送りにはいけないけれど気をつけてね。
どうかお元気で」
次の瞬間、左頬に温かく柔らかい唇の感触を受ける。
うはっ!
視界が白くぼやける。
顔が熱い。
心臓の鼓動がリアルに耳に届いてくる。
彼女からの褒美によって意識がまた吹っ飛んだのは言うまでもなかった。
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